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  書 評
 モノクロ時代の青春を描く
                 ――佐野良二 『闇の力』――

               北 村  巌
                  (文芸評論家 日本近代文学会会員)


 青春がかならずしも輝いているばかりとは限らない。青春の途上で生を懐疑し自ら命を断った人間を、私(たち)は少なからず知っている。青春はそれだけ危うさをさそうものである。それ故に、青春を素材にした作品はいかなる時代のものであれ、その危うさとその痛みにおいて通底している。
 佐野良二氏『闇の力』は昭和三〇年代に青年期をすごした人間の青春作品である。昭和三〇年代はいうまでもなく、日本がまだ貧しすぎた時代である。この作品の表現をかりれば「ぼくは高校へ入りたいと言い出しかねていた。それをいえばきっと父ちゃんは面食らうだろう」という時代である。高校進学率がほぼ九九%という現代では、この言葉はほとんど死語に等しい。この作品はこのような貧しい時代の道北の小都市を舞台にしている。もちろんそこにも、貧しくてもけなげな青春がある。
 主人公・邦夫は士別高校定時制に通う高校生だ。邦夫を中心に、高校四年間の青春を著者は、切なくもみずみずしく描いてゆく。私は貧しいことがかならずしも善と言っているのではない。豊かさ故の内面の枯渇こそ現代文学の主要なテーマでもあるのだ。豊かさがもたらす関係の途絶は、文学に重要な可能性をあたえる。
 現代の若手作家が描く“自閉と孤独”は豊かさがもたらした現代の困難をよく反映している。昭和六〇年代に青年期をすごした作家・鷺沢萌の作品にはこの屈折があり、昭和五〇年代に同じく青年期をすごした作家・辻仁成や松村栄子の作品にも途絶した関係への痛みを読みとることができる。
 もちろん、私は現代の若手作家が文学の可能性を充分にとらえ、描ききっていると語っているのではない。問題の核心は貧しさや豊かさ一般にあるのではなく、いかなる時代であれその時代の人間がよくみえているかどうかにある。
 『闇の力』には、まぎれもなく昭和三〇年代の青年(人間)が、適確に描ききれている。私がこの作品にひかれたのは、何をおいてもこの点にある。たとえば、この作品の青年たちの情景を著者は、きわめて意図的にモノクロのトーンで描いていく。
 邦夫は高校へ毎日、六キロの夜道を通学するのだが、この真っ暗な世界を次のように表現している。
「暗い針葉樹の森があらわれた。得体の知れないものが隠れている気配があって不気味だった。奥にフクロウが棲んでいると聞いたことがある」と。この闇夜こそがこの作品全体の重要な像をうかびあがらせている。この闇夜こそ、当時の青年の青春を暗示しているのだ。
 他校生との暴力ざたのあとの煙草の火は「闇夜にひかる蛍」であり、稲を霜から守るために焚く燻煙は「闇夜を狐火」のように照らす。闇夜にうかぶ火は明るさを意味しない。いずれも、モノクロの世界なのである。この情景はシネマスコープ映画が登場し、まだ総天然色よりも、モノクロ映画が主流の時代そのものなのである。まさしく、モノクロこそ当時の青年の心象をよく表現しているのだ。
 一方、彩色や明るさはどのように描かれているか。いずれも邦夫たちに異和なモノとして写っている。
 夜空に突如あらわれたオーロラの色を「赤い揺れは、頭の中をめまいのように揺さぶり」、凶作の不安として演出させている。遅すぎた太陽は受精期をのがした稲に、実の結ばない徒花を咲かせ、「おびただしい黄色の花粉の乱舞は稲の死のあがき」であり、農夫の父はこの太陽さえ「一銭の得にもならないバカ天気め」と語る。
 失踪した姉と邦夫が再会する場面がある。ここでも「別人と思わせるほどの派手な化粧」は、邦夫たちの青春に異様な色彩として写る。イモチ病対策のために散布する防菌薬の「薄いピンク」も、モノクロの時代にどこか不自然なものとして描かれている。昭和三〇年代、まだ高度成長に至るまえの前半、道北の小都市の青年たちには、赤や黄やピンクの色彩はなじんでいないのだ。『闇の力』で描かれたこれらの彩色は邦夫たちにとけこんでいなく、いずれも距離をおいている。
 唐突な明るさも同様である。一つの象徴的な場面がある。教室の照明が白熱電球から蛍光灯に一斉に取り替えられる。教室に入った青年たちは一様にこの明るさにたじろぐ。「何だか恥ずかしいくらい明るいな」「机のちっちゃな傷までよく見える」と声をあげる。そのあと著者は次のように記述している。
「しかし教室を眺め渡すと妙に閑散としていた。空いている席が多過ぎるのだ。(中略)誰もやめたくてやめるのでなかった。みんなどうしようもない事情があるのだ。ぼくだってと不安がよぎった。めっきり老いた父ちゃんは、去年の凶作以来しょっちゅう母ちゃんといがみ合っていた。原因はみんな金のことだ。明るい蛍光灯の下で、ぼくに重くのしかかってくるものの本質が見える気がした」
 蛍光灯の明るさは、まだ暗さが似合う邦夫たちの青春に、どこかとまどいをあたえる。
 凶作、借金、失跡、生活苦という現実を抱えた当時の青年には、蛍光灯の明るさはまぶしすぎたのだ。確かに、この蛍光灯の明るさは、一方では高度成長への時代の予見を意味している。だが、邦夫たちにはこの人工的な明るさを、むしろある種の不安としてさえみつめている。対照的に邦夫たちの心をとらえているのは、暗闇に棲むフクロウであり、恋心を抱いている准看生・真野の純白な白衣なのである。
 最後のところで、闇夜に棲むフクロウに邦夫は一人呼びかける場面がある。この孤独な告白が真野の白衣と重なり合う情景にこそ、モノクロが最もよく似合う昭和三〇年代の青春がうかびあがっている。佐野良二氏のうまさである。この作品が読者に安定感をあたえているのは何よりも、著者のこの基調がしっかりしているからである。モノクロばかりがこの作品の軸ではない。登場する青年のいじらしさや、痛みは読者を充分魅了する。そこには底流に、闇をさまよう青春が描かれているからだ。
 総じてこの作品には人間の絆があり、読者に力をあたえてくれる。まだ関係に“夢”を託しえた時代なのである。人工のイミテーションの明るさで“自閉”する現代にあって、青年には闇こそが必要なのだとこの作品は教えているようにも思う。
                                            『北方文芸』 1996年9月号

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